しまんちゅの日記

~映像翻訳と映画と沖縄~

亡き人と泡盛を

父が亡くなってから、思い出さない日はない。

父と話したい、と思う。

15歳で実家を出たので、

おしゃべりな母とは違って、寡黙な父とはじっくりと話す機会は少なかった。

社会人になって東京に住み始めてからは、

1年に1回、沖縄に帰って泡盛を一緒に飲みながら話した。

あの頃、聞いてみたらよかったと思うことが今更ながらムクムクと湧いてくる。

そのひとつが、戦後の沖縄の話だ。

 

Amazonプライムでこのドキュメンタリー映画を見た。

「米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロ―~」

第二次世界大戦後、米軍統治下の沖縄で唯一人”弾圧”を恐れず米軍にNOと叫んだ日本人がいた。「不屈」の精神で立ち向かった沖縄のヒーロー瀬長亀次郎。民衆の前に立ち、演説会を開けば毎回何万人も集め、人々を熱狂させた。彼を恐れていた米軍は、様々な策略を巡らすが、民衆に支えられて、那覇市長、国会議員と立場を変えながら闘い続けた政治家、亀次郎。信念を貫いた抵抗の人生を、関係者の証言を通して浮彫りにするドキュメンタリー。

 

メジロ―は戦後も米軍の植民地として苦難が続いていた沖縄で、県民を導くカリスマ性のある政治家だったようだ。

その影響力は、アメリカ政府が公的文書に名指しで批判したり、銀行の融資を打ち切らせたりと邪魔をすることから、とても大きかったことがわかる。

 

父はリアルタイムでカメジロ―のことを見聞きしていたはずだけど、

メジロ―はおろか、戦後の植民地時代の詳しい話をすることはなかった。

 

でも思い起こせば生活の中に、ポツポツとアメリカを感じさせる事は多かった。

タンスの奥からB円(沖縄で使用されたアメリカ発行の公式通貨)や

パスポートやドル札が出てきたり

父がセロリを食べる時はピーナツバターをくぼみに塗るとか

よく言っていた「あいすわ~ら~」という言葉が実は方言ではなく、

「Ice water」のことだったり…

 

こうやって書いていると

 今はもう話せない父との何気ない思い出が私を支えていると思う。

話したいなぁ、と心が求めた時、目に入ったのがこの番組だ↓

 

Amazonプライム

「占いタクシー ーあなたの人生占いますー」

 

霊媒師がタクシー運転手に扮装し、目的地に着くまで乗客を霊視するという番組。

 

乗ってくるお客さんは皆、今は亡き人に対して何かしら「わだかまり」を持って生きている。

制作側がそういう人たちを集めたのかもしれない。

それでも、霊媒師が伝える亡き人の言葉を聞いた後、乗客の顔はすっきりしている。

 霊媒師やその「聞こえた」という言葉が本当かどうかはわからないけど

誰かが伝えてくれるだけで心の重荷が下せるのだなぁと思う。

 

人は人から生まれてくる以上、誰かを失っているものだ。

もう話せない、答えを聞けない相手に疑問や後悔や罪の意識を抱えている人は多い。

自分が誰かを失ってから、そういう事も気づくようになった。

 

父と泡盛が飲みたいなぁ。

 

too practical?

今年の彼からの誕生日プレゼントはNetflixだった。

映画100本、ドキュメンタリー100本を見る事を今年の目標に掲げて、

毎日、目がショボショボするくらい映像を見続ける私に彼は言った。

 

「誕生日プレゼントはNetflixにしてあげる」

彼はテレビも見なければ、映画もドラマもほとんど見ない。

それでも彼が契約し、彼のカードで決済される。

私が見たい間、ずっとだ。

 

 Netflixは原文と字幕が同時に再生でき、

Excelにもエクスポートできる。

私はさらに意識的に映像を見る事ができるようになった。

 

オンライン飲み会をしている時、

女友達にそのことを話すと「too practicalだわ。」と呆れられた。

私は笑った。

 

彼は、Netflixをくれることで

今いちばん私に必要なものをくれた。

女性差別とセクハラとスタンダップコメディ

東京オリンピックパラリンピック大会組織委員会森喜朗会長の

女性に対する発言が連日報道されている。

女性としてモヤモヤする。

まだこんなことを公の場でいう要人がいるのかと感じた。 

 

そんな中で、タイミングよくNetflixスタンダップコメディ

『マーク・バービグリアのジョークの神様、ありがとう!』を見た。

 彼のことは全く知らなかったけど、面白かった。

遅刻魔の話をしている時に、

神がかったタイミングで観客が遅刻してきたのをしっかり笑いに変えるし、

観客の1人がきっと無意識で発したのであろう性差別的な言葉も、

がっつりと逃がさず自分の話のテーマに取り込んでいく。

 

笑えない人もいるかもしれない。

なかなかギリギリな笑いを目指している人だと思う。

ショーのスタートからいろんなテーマを話していき、最後にすべてまとめてしまう。

すべて伏線だったのか!とその話術に感動する。

「誰も傷つけないジョーク」とは?

「何が笑えて、何が笑えないことなのか?」と考えさせる。

 

 彼はジョークに対してこう話している。

大事なのは 真意を
文脈から理解することだ

~中略~

言葉だけを切り取って
語られるのは危険だ

職を失うことにつながったり

殺される人もいる

だから決めてほしい

真意を
理解しようとするか―

しないのか

 

この作品を見るきっかけになったのはこの記事だ↓

ある女性ストリーマーがセクハラ発言をしたリスナーに対して、「女性を敬ってよ」と言った。

別のリスナーから「冗談も通じないのか?」という侮蔑のコメントがくる。

この議論のすり替えの時に発せられる『お決まりの一言』に対して

彼女はマイク・バービグリアのスタンダップコメディで語られる話を使って

男性陣に反論する。。。という記事だ。

front-row.jp

 

セクハラ発言が「ジョークだ」というのなら、その真意はなんなのか?

ジョークだと言うのなら、笑えるべき。けど、笑えない。

 

10年、20年前は、こういったセクハラ発言はスルーされていた。

私が10代20代の頃は、彼女のように「その発言は許されない」と徹底的に説教をすることはなかった。

マイク・バービグリアのショーやこのストリーマーの女性の記事が

私の森会長に対するモヤモヤにリンクしていった。

 世界は変わっていっていると日々感じる。

セクハラはもうジョークではすまされない。

女性差別はもう許されない。

でも、森会長はそのことを認知できず、前時代的な考えのままだった。

そういう人は早く追いついてほしいと思う。

 

積み重ねる

落語家の桂宮治さんが、真打ちに昇進された。めでたい。

このニュースを知り、

コロナで遠ざかっていた落語を見に行きたいという気持ちがムクムクと。。。

でも我慢する。

 

私の落語デビューは宮治さんの独演会だった。

マクラだけで爆笑してしまう、なんだか親近感がわく落語家さん。

演目も最後まで面白くて、飽きずに楽しめた。

初めての落語が宮治さんだったから、

その後も落語を見に行くようになったのだと思う。

 

寄席に行くと、前座、二つ目、真打ちと階級の違う落語家さんを見る事ができて

「芸のレベルの違い」というモノを感じることができる。

 

前座の噺は「演目を最後までちゃんと話せましたね」という気持ちになる。

二つ目は「クスっと笑ってしまう話が聞けた」と退屈しない。

真打ちになると。。。なんだかレベルが違うのだ。

話に引き込まれるのはもちろんのこと、

落語家を見ているはずなのに、

江戸の情景や、登場人物の生活が透けて見えてくるような気分になる。

五感が、頭の中で再生される。

毎回、噺を聞いたというより、

「これが芸か!」と積み重ねた芸の厚さに圧倒される自分がいる。

 

落語が面白いと思うのは、

演目つまり噺が落語家さんによって、全く違った印象を受ける。

同じ内容を話しているはずなのにドキドキしたり、しんみりしたり。

 

こじつけかもしれないが、字幕翻訳も落語の芸と同じだと思う。

現在の私の字幕翻訳は前座だ。

「最後まで素材をちゃんと訳せましたね」というだけ。

見ている人はきっと映像に没入できない。私の選んだ言葉が邪魔をしている。

積み重ねていくしかない。

 

Dry February

友人の「健康診断のために、Dry Januaryをした」という話を聞いて

明日からDry Februaryをしようと思いたった。

 

去年の12月に禁酒をした時は

体重が2キロ減り、なんだか体調も良かった。

お酒はtoxicなんだなぁ、とあらためて感じたけれど

やはりお酒と共に生きてきたし

イベントも多かったから1月は禁酒を解いた。

 

Dry Februaryが今月の30日チャレンジだ。

字幕か吹き替えか

アメリカに住んでいる時、

アメリカ人の友達にフランス映画を見に行こうと言ったら

断られたことがある。

「フランス映画って事はそれ字幕?字幕なら見ない。

それは映画を見に行くんじゃなくて、字幕を見に行くってことだから」

 

衝撃を受けた。

さすが、、映画が量産されている国の人だ、と思った。

映画は母国語で作られるのが当たり前なのね。

映画を見るか、字幕を見るかって選択肢なのね。

(結局、その映画は1人で観に行った)

 

日本人の私は、日本で映画を見る時

字幕版で見るか、吹替版で見るか、選択しなくてはならない。

 

日本では2000年以降は字幕版よりも、吹き替え版を見る人が増えたそう。

映像技術が進んで、綺麗で迫力あるものになってきたから、

字幕を読んでいるよりは、映像を見たいというのもわかる。

声優がこれほど表に出てきて、声に魅了される人たちが増えた今、

そうなるものわかる。

 

 しかし、、だ。

 

私は完全に字幕版で見たい。

俳優の声が聞きたい。セリフの言い方を聞きたい。

例えば、ケイト・ブランシェットの声でなければ、

もうそれはケイト・ブランシェットではない。と思う。

あの声が聞きたいんじゃないか!と思う。

 

しかし、、だ。

 

熊倉一雄さんのエルキュール・ポワロは、完璧だ。

だから、そういう出会いも期待して吹き替え版も見てしまうのです。

 

ただじっと待つ

私が東京に住み続ける理由は2つある。

桜と紅葉が見られること。

見たいアートが見られること。

生まれ育った沖縄では、この2つを見ることが難しかった。

 

沖縄の桜は1月に咲くし綺麗だけれども、

桜の品種が違う本州のふわふわタップリな桜が見たかった。

(沖縄の桜はソメイヨシノではなくヒカンザクラ

 

教科書で見るような絵画が日本に来日する際も

NHKで展覧会の紹介を映像で見るしかなかった。

 

見たくても、簡単には海を渡ることができない。

それが子ども心にとても悲しかった。

 

学生時代から、死ぬまでに見たい画家の絵があると言い続けてきた。

カラヴァッジョ、クリムトミュシャレンブラント、ダリ。。。

幸せなことに東京に住み始めてから、

見たかった画家の絵をすべて見る事ができた。

あとはクリムトの『接吻』を見に、ウィーンに行くだけだ。

 

そして、コロナ禍になった。

1年以上、アート作品を見る事が出来ていない。

楽しみにしていたけれどコロナの影響で延期されていた

カラヴァッジョの《キリストの埋葬》展が正式に中止になった。

 

www.nact.jp

 

悲しい。

けれど、人が死んでいくよりはいい。

命より大事なものなんてない。ぬちどぅたからさぁ。

3か月後には桜は咲くし、10ヶ月後には紅葉が見られる。

今はそれをただ待つ。