しまんちゅの日記

~映像翻訳と映画と沖縄~

思い出す、遊び

翻訳作業をしていると、懐かしい気分になる。

 

小学2年生くらいの頃

沖縄に住むアメリカ兵とのゴタゴタに巻き込まれた事がある。

それは私の中にトラウマになり

アメリカを怖がるようになってしまった。

 

それを知った父が叔父に話したのだろう。

米軍基地内で働いていた叔父が

基地内で買ったピザやローストチキンなどを持って

我が家に週一で通うようになった。

宅配ピザの2倍はありそうな大きなピザを食べながら、

叔父はアメリカやアメリカ人の話をしてくれた。

良いことも、悪いことも、楽しいことも、怖いことも。

 

叔父はしばらくすると、これも基地内で買った絵本を持ってきた。

「これを使って、この絵本を読んでみろ」と言って

叔父の使い古してボロボロになった英日・日英辞書を渡された。

 

今考えてみると

まだアルファベットもわからない

英文法の概念さえも知らない子供に

英語の絵本を読め!という叔父の発想は面白い。

叔父は辞書の引き方から教えてくれ

私に単語をひとつひとつ調べさせ、文章を「予測」させた。

絵本だから、ページは少なかった。

難しい単語も表現もなかったのだと思う。

 

そして絵柄と予測した文章を並べて全体を読むと、

どんなストーリーになったか?というプレゼンをさせた。

ぐちゃぐちゃなストーリーだ。

でも、楽しかった。

叔父は正しいストーリーを話して

私の文章の「予測」の何が違ったのか?

つじつまが合わないところを説明をしてくれた。

この一連の「遊び」が翻訳作業に似ていて

叔父との思い出が、私の翻訳の原点だなぁと思う。

 

叔父の遊びは私がアメリカを怖がらなくなるまで続いた。

「漫画だったら読みたくなるだろう」とSNOOPYをもらったのが最後だ。

私のSNOOPY好きもここから始まったんだなぁ。

 

 

キリングフィールド

最近、自分が「引き戻されてるなぁ」と思うことが多い。

過去に感じたことに、引き戻される感覚がある。

 

子供の頃、映画好きな父と一緒にカンボジア内戦を取材したジャーナリストたちの実話を映画化した「キリングフィールド」を見た。

子供だから、赤いマフラーの人たちが何なのか

カンボジアの情勢などもわからない

ジャーナリストが何をしたいのかもわからない

同じ目的で行動しているはずのシドニーとプランがなぜ違う運命を辿るのかもわかっていなかった。

ただ、なんだか心に残っていた。

 

大学生になって、大虐殺についての授業をとり

クメール・ルージュについて、カンボジアについて学んだ。

子供の頃にわかっていなかったことを理解した。

そして、映画の中で描かれていないことが気になった。

 

父がカンボジアに行ってみたいと言っていたことを

なぜか私はずっと覚えていた。

20代の頃、有給を使って1人でカンボジアに行ってみた。

心配するだろうと思い、両親には伝えず

当時、一緒に住んでいたルームメートに

一人旅の日程と何かあった時のための連絡先を伝えて行った。

 

美しいアンコールワットの遺跡にたくさんの銃弾の跡があった。

「地雷が撤去された印のある場所以外は勝手に歩き回らないで」と

若いカンボジア人のガイドに止められた。

内戦の跡はいろんなところに残っていた。

キリングフィールドが見たかったわけじゃない。

内戦の跡と再生していく姿を見たかった。

たくさん、写真を撮った。

写真を撮り続ける私にガイドが言った。

「あなたは全然自分の写真を撮ってないね。撮ってあげるよ」

その言葉が一瞬、意味が分からず

ぽかんとしながらも、一枚撮ってもらった。

そうか。

観光客って、自分がここに来た記録を残すものなんだ。と。

 

ずっと缶ビールとペットボトルの水だけで過ごしてきたのに

滞在が長くなると気が緩んで、レストランでレモンジュースを飲んだ。

その夜、食中毒になった。

日本から持ってきた薬は全く効かず、一晩中、上からも下からも全てが出た。

ひとりで、ホテルのトイレに頭を突っ込みながら

このままカンボジアで死んでしまうのかなと思った。

次の日はカンボジア滞在最終日。

朝、ガイドが迎えにきたので

頭が回る気持ち悪い状態でも遺跡をまわった。

遺跡の前で、どこかの国の一人旅の男性に「写真を撮ってくれ」と言われて

焦点が合わない状態でフラフラになりながらも彼にカメラを向けて

「OK, on three」とか言いながら写真を撮ってあげた自分は心底日本人だと思う。

 

帰国して数日は寝たきりになったけど

上からも下からも何もかも出し、空っぽになった私はかなりスッキリしていた。

そして「キリングフィールド」を見てから

15年以上も持ち続けていたカンボジアへの知りたい欲求も

スッキリなくなり満足した。

 

先週1984年制作の「キリングフィールド」が放送されていた。

録画したものを見てみた。

今だから感じるものがある。

なんだか、歴史的背景が足りないのではないか?

 最後のimagineはどうなのか?

 ムクムクと湧きあがるものがあった。

その日、図書館で予約していて受け取ったのが、本田勝一さんの本だった。

引き戻される。

Netflixカンボジアでの大虐殺を描いた「最初に父が殺された」という映画を見つけた。

この映画の原作である「First They Killed My Father」は

大学の授業で読まされた課題本だった。

映画が製作されたのを知らなかった。見てみよう。

 

今年に入ってのミャンマーの情勢を見ていると

カンボジアを思い出す。

 

なんだかいろんな思いが頭をめぐっていて、全くまとまらない。

 

彼に早くサンドウィッチを食べなさいと怒られた。

…そして失敗した

人は自分が失敗をしたことに気づくと、立ち止まる。

今日の私がそう。

道の真ん中で立ち止まった。

そしてがっかりして、一気に脱力した。

 

昨日、ブログで書いた「失敗してやる」が言霊だったのか?

私のうっかりさんが顔を出して、失敗してしまった。

へこんでも仕方がない。

まだ取返しがつく失敗でよかった。

また明日リトライしよう。

 

失敗の帰り道、近所の神社でお参りして帰った。

私は戦いに出て失敗してやる

無意識に何かの答えを求めている時、図書館に行く。

本屋さんに行くのが王道かもしれないけれど

新品の本は色が華やかで何か落ち着かない。

図書館の本は、少しくすんでいて目に優しく

ゆっくりと背表紙を眺めることができる。

 

必ず、何か見つかる。

一冊見つかると、数珠つなぎにいろんな本を手に取っていくことになる。

なんだか心が開くのだ。

そして、その時に必要な言葉を拾える。

 

今日、何かを探していたわけではなかったのに

私を助けてくれる言葉を拾った。

本の中ではなく、Netflixの中だった。

 

映画「ブレネー・ブラウン:勇気を出して」

 

ブレネー・ブラウンはスタンダップコメディアンではない。

彼女は「恥」の研究者だ。

そして、とんでもないストーリーテラー。最高におもしろい。

 

開始5分で、前準備が必要なことがわかる。

先にTEDでの講演を見なくてはいけない。

この2つのTED TALKも面白かった。何度でも繰り返し見たいTALK

 

www.ted.com

 

 

www.ted.com

 

改めて映画に戻る。

人間の感情の研究者だからか、彼女の話には共感しかない。

テディ・ルーズベルトのくだりはとてもわかる。

突然、神が下りてくることがある。

 

私が拾ったのはこの言葉だ。

“失敗を恐れない”ではなく
“必ず失敗する”

“勇敢に生きたら失敗する”

 

最近起きたことで、どうしても自分に自信が持てなかった。

信頼している人に相談して、力強い言葉をもらった。

それでも、私は失敗することを恐れていた。

 

ブレネーは言う。

「勇敢に生きたら必ず失敗する。

でも、称賛に値するのは戦いに出る者。」

 

私は前提が間違っていた。

なんだ。勝負に出たら、”必ず”失敗するのか。

それなら怖がる理由がないのかもしれない。

できることを、やるだけだ。

絶対、失敗するし。

 

彼女の書籍がベストセラーになるのもうなずける。

次々と出てくる彼女の言葉は

ノートに書き写したいくらい私の心に刺さる。

 

「女性は自分の体形を恥じて、男性は自分の弱さを恥じる」

 

「人は最も愛している相手を一番激しく攻撃する。

なぜなら、相手の弱さを見るのが怖いから。

無防備になるのが怖いから傷つけあう」

 

「失敗する気がないなら革新できない

無防備になる覚悟がなければ創造できない」

 

最後に話された彼女の娘の葛藤の話は

まるで自分を見ているようで泣けてくる。

邦題にもなっている「勇気を出して」の意味がわかる。

 

生きるって、誰かと闘っているのではなく

自分との闘いの繰り返しなのだな。

vulnerability

自分の弱さを受けいれていこう。

1000歩

「1000足作ったら、自分が作りたい靴が作れるようになる」

 

靴職人がそう話してくれた。

その人が教えてくれる靴工房に週に1度通った。

私が作った靴は3年で25足だった。

 出来上がった靴は、靴の形をしているし履ける。

しかし趣味で作っていたとはいえ、その出来はどこかいびつだった。

 

職人の世界って大変…

 

字幕翻訳の世界はどうなんだろう?

一体、何作品を手がければ一人前になれるんだろう?

これから字幕翻訳の職人を目指す者として気になった。

私の知っている中で一番キャリアが長い戸田奈津子さんの場合、どうだろう?

 

この記事によると、戸田さんは40年間で1500本の作品を手掛けているそうだ。

www.buzzfeed.com

 

私が好きな松浦美奈さんは、どうだろうか?

Movie Walkerで調べてみると、関連する映画作品は478件と出てきたけど、

実際にはもっと多いのだと思う。

質も上げていかなくては、それだけの数を依頼されることもないだろう。

 

求められる翻訳者になるには、、と日々考えながら過ごしてはいるものの

目標と現実がまだ離れている。

不摂生な私は、寿命を延ばすことも同時にしなくては追いつけなさそうだ。

 

 

 

亡き人と泡盛を

父が亡くなってから、思い出さない日はない。

父と話したい、と思う。

15歳で実家を出たので、

おしゃべりな母とは違って、寡黙な父とはじっくりと話す機会は少なかった。

社会人になって東京に住み始めてからは、

1年に1回、沖縄に帰って泡盛を一緒に飲みながら話した。

あの頃、聞いてみたらよかったと思うことが今更ながらムクムクと湧いてくる。

そのひとつが、戦後の沖縄の話だ。

 

Amazonプライムでこのドキュメンタリー映画を見た。

「米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロ―~」

第二次世界大戦後、米軍統治下の沖縄で唯一人”弾圧”を恐れず米軍にNOと叫んだ日本人がいた。「不屈」の精神で立ち向かった沖縄のヒーロー瀬長亀次郎。民衆の前に立ち、演説会を開けば毎回何万人も集め、人々を熱狂させた。彼を恐れていた米軍は、様々な策略を巡らすが、民衆に支えられて、那覇市長、国会議員と立場を変えながら闘い続けた政治家、亀次郎。信念を貫いた抵抗の人生を、関係者の証言を通して浮彫りにするドキュメンタリー。

 

メジロ―は戦後も米軍の植民地として苦難が続いていた沖縄で、県民を導くカリスマ性のある政治家だったようだ。

その影響力は、アメリカ政府が公的文書に名指しで批判したり、銀行の融資を打ち切らせたりと邪魔をすることから、とても大きかったことがわかる。

 

父はリアルタイムでカメジロ―のことを見聞きしていたはずだけど、

メジロ―はおろか、戦後の植民地時代の詳しい話をすることはなかった。

 

でも思い起こせば生活の中に、ポツポツとアメリカを感じさせる事は多かった。

タンスの奥からB円(沖縄で使用されたアメリカ発行の公式通貨)や

パスポートやドル札が出てきたり

父がセロリを食べる時はピーナツバターをくぼみに塗るとか

よく言っていた「あいすわ~ら~」という言葉が実は方言ではなく、

「Ice water」のことだったり…

 

こうやって書いていると

 今はもう話せない父との何気ない思い出が私を支えていると思う。

話したいなぁ、と心が求めた時、目に入ったのがこの番組だ↓

 

Amazonプライム

「占いタクシー ーあなたの人生占いますー」

 

霊媒師がタクシー運転手に扮装し、目的地に着くまで乗客を霊視するという番組。

 

乗ってくるお客さんは皆、今は亡き人に対して何かしら「わだかまり」を持って生きている。

制作側がそういう人たちを集めたのかもしれない。

それでも、霊媒師が伝える亡き人の言葉を聞いた後、乗客の顔はすっきりしている。

 霊媒師やその「聞こえた」という言葉が本当かどうかはわからないけど

誰かが伝えてくれるだけで心の重荷が下せるのだなぁと思う。

 

人は人から生まれてくる以上、誰かを失っているものだ。

もう話せない、答えを聞けない相手に疑問や後悔や罪の意識を抱えている人は多い。

自分が誰かを失ってから、そういう事も気づくようになった。

 

父と泡盛が飲みたいなぁ。